熊本地震対策特別委員会・委員 美濃口雅朗
私こと、熊本市役所に勤務している関係上、熊本地震後しばらくは避難所対応等に追われていましたが、少し落ち着いた頃から焦りのような気持ちが沸いてきました。
当時は、県外からのボランティア・自治体職員が支援に来てくださり、町には県外ナンバーの清掃車・トラックが行き来していました。そのようななか、何もしないというのが心苦しく、「自分も何かしなくては」と思い…
結局、地震発生時から気になっていた石造文化財の被災状況を自分の目で確認し、その情報を還元していくことにしました。
あくまでも個人的に、また思い付くままに見て廻っただけはありますが…
今回は、そのレポートの第1回です。
熊本市中央区横手の妙解寺跡。
国史跡熊本藩主細川家墓所を構成する臨済宗寺院跡で、熊本藩主初代細川忠利公以降の歴代墓、子女墓、僧侶墓などがあります。
まずは墓所下の参道両側にある灯籠群を見ました。寛永18年に没した初代忠利公への奉献灯籠で、30基以上の全てが倒れていました。いずれも南北方向に倒れており、この地域における地震の揺れの方向が看て取れました(写真1)。
ちなみに、震源に近い熊本市の南東部、健軍地域にある近現代墓地の墓石は、倒れた方向がまちまちで、これは下から突き上げるような揺れによるものと考えています。同じ市内でも地震の程度・揺れ方が違うことを示すものでしょう。
で…妙解寺の灯籠ですが、倒れたために、普段は見えない各部位の接合面を見ることができました。
大半を占める在地系の輝石安山岩製灯籠。竿石の上・下面、基礎の上面などには、ズレ防止のため、ノミによる粗い調整が施されていました(写真2)。
一方、搬入品とみられる瀬戸内系花崗岩製灯籠。竿石下面にホゾ、これに対応する基礎上面にホゾ穴が設けられていました(写真3・4)。
ちなみに、正徳4年没の3代綱利公墓にも瀬戸内系花崗岩製の灯籠が奉献されていますが、倒れたものを見ると、こちらにはホゾ等は認められませんでした。
時期差を示すものかしら、などと思っています。
階段をあがると、正面に初代忠利公・同室・2代光尚公の霊屋3基が並ぶ「三つ御廟」がありますが…
墓域入り口の壮麗な四脚門は柱から倒壊していました。衝撃でした(写真5)。
墓域に入っていくと、霊屋3基…全て建っていました。見たところ目立った被害もありませんでした(写真6)。
でも、安心はできません。霊屋内を確認すると…
天井の雨漏りは認められたものの、墓石である五輪塔は3基とも立っていました。
忠利公の五輪塔。火輪と水輪との位置が少しずれてはいましたが、とにかく倒れておらず、ホッとしました(写真7)。
「殿。よくぞご無事で!」
思わず心の中で叫んでしまいました(その後、苦笑)。
以来、私のパソコンの壁紙はその時に撮った忠利公の霊屋の写真です。
今回はこれまで。妙解寺墓所のレポート続けます。