熊本地震特別対策委員 美濃口雅朗
熊本地震の思い出。私こと、前震が発生した時、一人で職場の作業室におりました。
当時の職場建物は、昭和27年造の洋風建築で、元々は熊本検察庁であったものを幾つかの変遷を経て、私どもが使用していました。
地震の揺れで書架などが倒れ、それらが入り口を塞いでしまいました。
そこで初めて気付いたのですが、古い洋風建築のためドアが内開きだったのです。室外に出るのに一苦労しました。
普段から災害時に備え、ドアが内開きか、外開きかによって物を置く場所を考慮しなければ、という教訓です。
ちなみに、この建物は地震後、解体・撤去されました。
そういうことで、今回は「教訓」に関わる文化財の被災状況のレポートです。
熊本市西区河内町の海沿いにある津波教訓碑です。
寛政4年の島原普賢岳噴火に伴う眉山の山体崩壊により、対岸の肥後沿岸に津波が押し寄せ、その被害で約5千人が亡くなったという「島原大変 肥後迷惑」。
熊本県内には沿岸部を中心に、この時の供養碑・波留石・個人墓など57基が確認されています。
件の津波教訓碑には、被害状況や教訓が、碑身4面に記されています。
「事あらん時は慾をはなれ萬の物を顧ずただ老多るをたすけ幼をたつさえて速にさけのくべし」
「かねて其道をもあたため置て急難にのそみてまようことなかれ」
「これらの事をも よくかんがへてめんめん覚悟して子孫をもさとしいましむへし」
情報が発達していなかった当時のことですから、実体験に基づいた教訓が記されたのだと思います。
現代にも通じる先祖の災害教訓、熊本地震を体験した我々には改めて強く響きます。
碑身は一辺の幅約40㎝の縦長の方柱形で、自然石の基礎上面を少し整形した上に立てただけのものでしたから、地震で倒れてしまったのではないか…
また、同所には津波に関わる板状の自然石の個人墓や灯籠(竿石のみ)もまとめてあり、これらも倒れやすい形状なので心配…
というわけで見に行きました。
市内沿岸部は揺れが比較的弱かったということもあるのでしょうが…
全て、無事に立っていました。
そこで、改めて基礎部分を見ました。
碑身下部と基礎の間にモルタルがたっぷりと塗布されていました。個人墓・灯籠も同様でした。
モルタルが倒壊を防いだことは間違い無いと思います。
以前、見た時は「これは艶消しだな」と、「もっと配慮した措置は採れなかったものか」と…
そう思っていました。
でも、今回は「モルタル万歳!」です。
近くの蓮光寺にも「溺死墓」と主銘された寛政津波の供養碑がありまして…
縦長の自然石で不安定な形状でしたが、これもモルタル塗布のおかげで無事でした。
とにかく、いざという時に備えて何がしかの措置を講じておくこと。
それが今回の「教訓」です。
なお、有明海沿いの長洲町から宇土市まで(私が把握している限りではありますが)、津波供養碑・波留石・個人墓をローラー的に見て廻りました。
小形の個人墓の倒れや供養塔の塔身のズレ等は見られましたが、深刻な被害はありませんでした。
また、天草地域のものについては、天草市の文化財担当者M本君から「大きな被害無し」との知らせをいただきました。
ちょっと付け加えておきます。
熊本市西区花園にある加藤清正の菩提寺、本妙寺にも寛政津波の供養塔があります。
海から離れた場所ですが、これは、城下古町の別当で、城下に集まった津波被災民の救済を行なった友枝太郎左衛門が願主となって造立したためとみられます。
大形の宝篋印塔の相輪・露盤が落下していました。
笠の上面と露盤の下面を見ると、ともに径約2.5㎝の小孔が認められました。このことから木製あるいは金属製のダボで継いでいたことが判りました。
…そんなことばかりが気になっています。