熊本地震特別対策委員 美濃口雅朗
お断りです。
「熊本地震の思い出」と題していますが、今回は大正12年の関東大震災のことを書きます。勝手なことですみません。
私こと、福岡市在住のN村氏とともに「九州近世大名墓研究会」というのをやっております。マイナーなジャンルなので会員は2名のみ。
もはや研究会と称して良いものかどうか…
オジサン2人して九州内の大名墓を廻っておりますが、そのなかで関東大震災による影響がみられるものがありました。
今回は、そのレポートです。
関東大震災被害を契機とした区画整理により、東京にあった本葬墓を廃し、国元の墓に遺骨を改葬したものがあります。
まずは、福岡県柳川市にある柳川藩立花家福巌寺墓所です。
黄檗僧の墓石形態を取り入れた「寿塔形式」の歴代墓が並んでいまして…
そのなかには塔身に、以下のような追刻があるものが見られます。
「大正十四年十二月二十三日移東京下谷廣德寺兆域之遺骨合葬干比處」
このことから、初代宗茂公・5代貞俶公・8代鑑寿公・9代鑑賢公墓は台東区広徳寺から、2代忠茂公墓は文京区徳雲寺からそれぞれ改葬されていることが判りました。
長崎県平戸市にある平戸藩松浦家雄香寺墓所では、6代篤信公・8代誠信公・9代清公墓が、昭和3年に墨田区天祥寺から改葬されています。
上記2例は、国元にそれぞれの分骨墓・供養墓があったために、その墓石は維持されたまま改葬された事例です。
次に、同じく関東大震災被害を契機とした区画整理により、東京にあった本葬墓を廃して、国元に改葬・合祀する際に墓石を新造したものを紹介します。
小倉新田支藩小笠原家9代貞正公墓です。
明治39年に没した最後の藩主で、墓は福岡県豊前市円山墓地に造られました。
現状は、コンクリート製の方柱形墓石です。
その塔身背面に貼り付けてある銅板には…
養子として本藩主になった7代以外の4代貞温公~8代貞寧公は、浅草海禅寺に葬られていたが、関東大震災で墓が全滅したこと。
大正15年、豊前市丸山墓地にこれらを改葬・合祀したこと。
などが記されています。
改めて墓石を見ると、正面の主銘は貞正公の個人名ではなく「小笠原家歴代霊城」とあり、またコンクリート製であることから…
恐らくはそれまでの貞正公墓を廃して、コンクリート製の合祀墓を新造したものとみられます。
関東大震災は、各地の大名家が江戸に営んだ墓所にも大きな被害をもたらしました。
その後の区画整理・墓域縮減によって墓所の整理・移転を余儀なくされた事例も多く、なかには、その時の混乱のためでしょう、殿様の墓なのに所在不明になってしまったものもあります。
国元への改葬は窮余の策だったのだと思います。
それにしても、遠く離れた九州の地までとは…
これらの墓は、各家にとっては先祖祭祀の対象であることは言うまでもないわけですが、私どもの立場からみると、近世の墓制を知るうえで重要な歴史資料であります。
その被害と損失を思う時、改めて「地震は恐ろしい」と感じています。